2021年11月10日 水曜日

--今日は雨ではない。晴れか曇りか。

--ネットフリックスのアメリカ版実写ガンダムのコンセプトアートが出た。まあ米国ならこういう画になるのねという感想。ガンダム的なスマートさってのがリアルとは別のレイヤーがあるのだけど、なかなか外国だとそれは理解されないなとは思う。違うものとして楽しむことになるだろう。しかしどうも欧米人はでかい巨人=ごつい奴=力持ちという固定観念があって、結果、動きも鈍重になるし、見た目も太くなる。巨大ロボットに常識的な物理法則を持ち込む必要はないのに「人型」であるがゆえに、そうなってしまっているような気がする。欧米人にとって「人型」であることの呪縛はとても大きいのかもしれない。

--ツイッターの世界は怖いよね。揉め事、喧嘩ばかり。言葉だけの世界だから意見が先鋭化されやすいし、一度言ったら後にひけない感強いし。

--日々、体力が落ちてきているのを実感する。50歳でこうなら60歳になるともっときつくなるだろうな。まあそれまで元気でいることができればだが。

--自分は解像度が20%くらいで生きている。もう世の中に追いつけない。

--詩を読む。詩は良い。自分は長い時間の集中力に欠ける。詩は断章でもある。短い時間に圧縮されている。時間や永遠のようなものが。

--月曜から始まる新しい仕事のことを思うと気が重くなるが、まあどうにでもなるという気持ちになるしかない。生き死には自分で決めさせてもらうという覚悟があれば大抵のことは大丈夫。他人に殺されるのはまっぴらだ。

--われわれが戦うべきものは自由を「真に奪う」ものに対してだ。

--末期資本主義がどんどん良くない意味での共産主義に近づいていくのは、今やだれでも実感できるだろう。

--「課金」という言葉のもつシステム性。

--「閃光のハサウェイ」についてなんだかんだでずっと考えている。このアニメ映画はお世辞にも完璧にな作品ではない。原作からも随分とアレンジされてる。何も希望を示していないし、ただのひとりの青年の行き止まりを描いているだけともいえる。そもそも原作では最終的にはあのような結末を迎えるが映画がそうなるとも限らない。じっさい第二部ではかなり原作から離れるようだ。最終的に良い作品で終わるかどうかもまだ分からない。駄作で終わる可能性もある。そもそも映画として演出があまりうまくない。綺麗な構図の綺麗な作画をみせることは一流だが、カットとカットがつながって生まれる映画のエモーションが希薄である(暗闇での戦闘シーンは自分は良いと思った。何も見えない中に光だけが見える巨人というムードは良い)。だが第一部の段階でも、ハサウェイの行き詰まりの感覚が自分にはとてもよくわかる。わかってしまうというべきか。これは制作者の意図を超えて原作の本質を受け継ぐものかもしれない。またいささか動的な魅力の欠いたコンテが、ハサウェイの他人から距離をとり、人との関係を希薄にするムードを、たまたま偶然に映像化できていたからかもしれない。しかしともあれある部分では確かに成功していた。ハサウェイという人間の微妙な人との距離感と心の空白だ。ハサウェイは上の世代、つまりはアムロやシャアのような神話にはなりえない時代を生きている世代だ、これは世代論の作品である。以降の時代を生きる世代の困難を描く作品てある。アムロやシャアなどの英雄が戦った時代が終わり、世界はより「システム」が強固になり、そのシステムが世界全体を蝕む。便利さの牢獄。あの豪華ホテルや自由に使えるカードのように、便利にして無慈悲なシステム。ハサウェイはかつて戦場でクエスを失い、チェーンを殺害してしまい、その心の傷を引きずったまま青年になった。世界を守る/世界を変えるといったまま消え「伝説」になった「彼ら」は、ハサウェイを具体的に導くことのないままこの世から消えた。彼らは勝手に始めて、勝手に終わらせて、勝手に去っていった。時代・世界は彼らを伝説にした。英雄にした。しかしハサウェイは彼らのようには決してなれない「以降」の時代を生きる宿命を背負っている。ハサウェイは少年のまま成長する機会をあたえられなかった。ハサウェイがパイロッとしてどんなに優れていても、ニュータイプとしての素養があっても、しかし彼は伝説にもヒーローにもなれない。ただ快適な地獄が続くこの世界の十字架を背負っているだけだ。ブライト・ノアミライ・ヤシマという地球連邦軍の有名軍人(ホワイトベースの艦長と操舵手だ)を両親に持ったハサウェイには、この世界の地獄がよくわかるはずだ。ハサは一年戦争の後、ジオンの残党との戦闘行為が延々と続いた時代に幼少期を送っている。世界は混乱し、彼らも安定しない生活を送った。幼少期にミライの運転する車で、妹のチェーミンと共に戦争期の地球を転々と移動していたハサウェイは、この世界が貧富と格差に満ちていることをその幼い目に見ていたに違いない。そして青年期の彼が裕福な立場にいられるのは、ジオンもシャアも地球連邦軍の圧倒的物量によって敗北したからで、それがなければ彼ら軍人家族はどうなったのかわかったものではないことも青年ハサウェイは知っているはずだ。ハサウェイをはそれを幼少期から少年期にかけて体験した。世界が「持つもの」によって支配されてるということを。そして死んでいった人たちの悲しいも声も。しかしそれでもハサウェイはアムロやシャアのような英雄にも伝説にもなれない。その「伝説」は、彼らの世代で終わったことなのだ。勝利と敗北の確定によってあの世界のシステムはより強固になった。ハサウェイは絶望を知りつつも、無力感に苛まれているように思える。それが彼をマフティへと導いたと想像するのは簡単だ。だがそれもまた彼を利用したクワック・サルヴァ―のような「大人」がいるだけのことである。原作のクワック・サルヴァ―もまた偽名であり存在しないコードネームのようなものであり、これもまたシステムでしかなくいだろう。導くものをシステムであること。ここに横たわるのは無力感だけだろう。だからこそ(というのは乱暴と承知の上だが)、ハサウェイは「ガンダム」を求める。しかしこれこそやってはならないことだ。ガンダム世界にあっては「ガンダム」は無力な少年が世界に対峙する力の象徴だからだ。もはや20代の青年であり、大人であるハサウェイは本来ガンダムに乗れるものではない。大人であるハサは他の大人と同じく量産機に搭乗すべきなのだ(乱暴な意見だろうが)。だがそれでも「ガンダム」に乗れると思ったのも最後のアムロを見たからだろう。当時20代の大人であったアムロもまたνガンダムに乗り、そして地球を守るために散った。だがνガンダムは本当にガンダムだったのだろうか。リ・ガズィと同様にガンダムもどきでしかなかったのではないか。ここでもハサウェイは上の世代の反復をし、上の世代のようにはなれない自分を越えようとする行為を見出すことができる。彼は「以降」の時代を生きる世代の憂鬱を背負っている。オリジナルにもオリジナルでないものですらも「なれない」、すべては終わった時代を生きる世代。これは自分のような1970年代以降を生きる人間にはとても「わかる」のだ。彼の憂鬱も、彼の怒りも、彼の焦りも、彼の憤りも。だが、それは理念としては正しくとも現実的に正しくない。しかしそれ以外の方法はもう思いつかない。行き止まり。出口なし。この世代的な憂鬱があの映画が原作から受け継がれて残存しているものだ。ゆえに私はどうしてもハサとケネスとギギの関係を思い出してしまう。ハサウェイは私だといえば大袈裟かもしれないが、彼の憂鬱はある時代以降、つまり「すべてが終わった」「以降」の時代の憂鬱そのものだからだ。

--などと書いていたらマーク・フィッシャーを読み直そうかと思ったが、むしろ伊藤計劃の『虐殺器官』かもしれないなと思い至る。1941年生まれの富野由悠季と1974年の生まれの伊藤計劃がつながる。この親子ほどの年齢の離れた二人の「作家」の原作をアニメ化した監督が1964年生まれの村瀬修功ということ(アニメ化のときのズレはこの監督と作家の世代差にあるような気もする)も重要だろう。