2021年12月06日 月曜日

--ようやく休み。死んでしまう…。

--寝て体力を回復させる。

--鷲巣繁男の詩を読む。

--鷲巣繁男を読み、ジム・オルーク電子音楽を繰り返し接する日々。

--幻想に生きていれば幸福だが、そのために現実を生きていくしかないのは世界のバグではある。

--資本主義下の商品に幻想を得ようとすると、人はその社会に従属して生きていくことを強いられる。資本主義も商品も今のわれわれからは逃れようがないが、資本主義を弱くすること、巻き戻すことは可能ではないかと夢想する。経済圏を小さくすること。

--マーケットの大きさを努力の結果、その必然とみるだけなら、世界はマーケットのみが正しいことになってしまう。むろんマーケットの拡大を目指すことは否定するものではないが、それに対するオルタナティブがなければ社会は窒息する。資本主義が無限と拡張を目指す巨大な進化(ある意味でゲッターロボのゲッター線のようなものだ)とすれば、それに対するミニマムからマキシム(永遠)を得ようとするあり方も必要だろう。自分は「詩」と「個人的な電子音楽」の両方にその可能性をみる(読む/聴く)。例えばオルークのバンドキャンプにはその可能性と実践かもしれないと感じる。

--だが同時に詩人が詩人としてのみ生活を維持することは困難でもあるはずで、そこから労働の問題と権力構造の問題に行き着きもする。そのとき単純な20世紀後半型の新左翼的なものを模倣すると、やがて組織論に囚われてしまうことになってしまう。問題はそこにある。

--生活と詩。生活と芸術。この二つを同時に走らせていくことは資本主義社会の矛盾を背負って人生を送ることを意味する(面もある)。

--そこからユートピアへの希求も生まれてしまうかもしれないが(新左翼共産主義北朝鮮への逃亡)、それは危険であり、主義の果ての理想郷は支配論でもある。

--ベルンハルトの『昏乱』を購入できたので読んでいる。

--ツイッターからはもう離れるべきだなと思う。やめることは無理にしても。単に誰も自分のツイートなんて読んでない。限られた数人の方だけが読んでくれている状況だ。ならばこちらのブログでも変わりない。記録としても分かりやすい。

--東京の片隅で生息していると、どんどん人と街が貧困化しているのがわかる。端的に貧乏な人が増えている。自分もそうだ。20年前と比べると貧しくなり、もはや生きているだけで精一杯だ。本を買うのはもはや命がけである。しかし本なしで生きてはいけない。糧のようなものか。