音と知覚、世界

--音は「世界」に従属していないという立場を自分はとっています。これはおかしな考えかもしれません。普通、音は物質の接触によって生まれ、空気を通じて人の聴覚へと伝搬されるもののはずです。音と物質と世界は一体であり、そのこと自体を余地はない。

--しかし、私は「私たちの知覚はこの世界そのものに触れることはない」という自覚があります。純粋な「世界」は人間においては認識不可能という自覚です。「世界」は人間の知覚を経由して認識へと至るとき、さまざまな情報が捨象される。いわばビットレートを落とすように圧縮される。

--純粋な「世界」とは世界そのものです。つまり圧縮されていないデータとすべきでしょう。膨大な生データです。当たり前ですが、われわれ人間は、そんなウルトラ・ハイレゾリューションな「世界」すべてを知覚することはできません。どこかで焦点を絞り、編集をし、圧縮することで「世界」を捉えています。

--捨象と編集。そう考えると人間存在とはいわば「メディア」のようなものなのかもしれません。認識により「世界」の情報を捨象、圧縮し、解像度を落とすことで適度な輪郭線を得るように世界を捉え直すこと。そのとき「世界」は単純化され、認識の輪郭線に収まりやすくはなるが、その高密度の解像度は確実に落ちる。認識の速度にも遅延が生じる。「記憶」とはそういうものなのでしょう。

--つまり人間にとって「世界」とは常に遅れてくるものなのです。媒介・媒体=メディア=編集=圧縮によって人間は世界を知ることができる。ここで「世界」と人間認識のズレが生じるわけです。

--そのズレはもしかすると「虚構」といってもいいような気がしますが、虚構といっても「物語」とかそういうものでもありません。いわば映像と音響の記録媒体といってもいいでしょう。

--ここでもうひとつの問題であり、最初の問いに戻ります。映像と音は本来、同期しているものなのかという問いです。つまり世界と音は同期しているのかということです。

--映像は映像であり、そこに音はない。音も音でありそこに映像はない。だが映像は音を想起するし、音楽もまた映像を想起する。しかし絵画も写真にも音はない。音は映像ではない。

--そもそも映画もその初期には無声映画であり音はなかった。映像と音が同期したのはトーキー映画以降のことです。しかしその歴史的な捏造に過ぎない音と映像の同期を、われわれは当然の、当たり前の事実であるかのように思い込んできたのです。しかし映画の音は現実の音ではありません。その映像に必要な音がつけられています。

--同じようにわれわれの知覚もまた必要な音を無意識にでも選別しています。聴こえていても聞いていない音は存在する。世界と音は同期していない。先に書いたようにわれわれは観念によって世界を抽象化して認識さざるを得ない以上、世界そのものに触れることができないからです。つまり人間の知覚は世界に対して媒介・媒体としてあると考えるべきでしょう。

--世界と音は同期していない。なぜなら人間の知覚においては最初から分離・結合・編集されることで、この両者は存在するからです。