2010年代とは何だったのか

 2010年代が終わってから、2年ほどの月日が流れたにも関わらず、「2010年代の総括的なもの」はあまり頻繁には行われていないような印象だ。むしろ2010年代が未だ継続しているような錯覚すら持ってしまうのだ。

 2010年代は、中頃(2015年)あたりに爛熟期を迎えて、末期前(2018年頃)から急速に終わりを迎えていった、というのが私の認識だ。この年代は、基本的にはSNSによる「競争」の時代であった。むろん各種「政治」(の力学)も内包されるが、しかし「政治闘争」ではなく、いわば主張と主張の「競争」であったとすら思う。闘争ではなく「競争」の時代。それが10年代だった。

 そして「競争」とはSNSの情報テクノロジーに支えられていた(言い換えれば「動員」的な時代だった)。よって技術の時代でもあったといえるだろう。技術による数の動員。つまり2010年代とは「歴史」の時代ではなく、常にアップデート=更新を繰り返す「技術」の時代だった。還元すれば「歴史」が終わった年代でもあった。

 闘争ではなく「競争」。そして歴史ではなく「技術」。それによる数の動員。これらが「2010年代的なもの」ではないかと私は考える。そしてここに新たな「テクノクラートによるファシズム」の兆候(むしろ実践)を感じることは突飛なことではないだろう。そして現代2022年の各種状況をみると、10年代的なテクノクラートによるファシズム的状況がより促進されているように思える。

 これが10年代的なものがが総括しにくい原因ではないかと私は考える。総括とは歴史の賜物である。歴史ではなく、常に更新される情報テクノロジーが主体の時代では総括は起こり得ない。常に細部がされ、アップデートを繰り返すが、本質=OSはそのまま継承される。

 2010年代は終わっていない。むしろ「終わる」ということが終わったディケイドだった。拡張し、利用され、継続している。逆に考えればわれわれが「批判」すべきものが何かも見えてくる。10年代的な「歴史」の終わりを自明のもとして内面化して生きているものへの懐疑でもあり批判でもある。だがそれは自己批判でもある。そうである以上、その批判は20世紀敵なモダニズムのメランコリィでしかないともいえる。ではどうすべきか。とても困難な状況に生きている。

崩壊、不可避のイマージュ

 タルコフスキー旧ソ連邦の映画作家ですが、しかし彼はパリで亡くなりました。では彼にとって故郷であるソ連邦の記憶はどうだったのか。遺作となった『サクリファイス』を観ると、それは幼年期の甘美の思い出と共に、あるいはそれ以上に崩壊と破壊と終末に結びついているように思いました。そこでは人間が終末直前の状況でパニックになったり諦めたりしたりしながら、しかしようやく訪れる深い諦念のなかで崩壊する「故郷」を、何かひとつのイメージに託しています。

 そのさまは、世界をひとつのイマージュに託すということかもしれません。言葉を変えれば世界をイコン化することでしょう。イコン化された世界は純粋であり、ゼロであり無限でもあり、素朴でもあり、崇高でもあります。イコンはモノでありモノではない。いわばイマージュです。イマージュとは虚像でもあり虚構でもあり真実そのものでもある。

 虚構とは世界です。世界とは現実です。現実と虚構は反転しつつ同じものでもあります。私は、タルコフスキーは世評とは異なり、映画作家としては不器用な作家だったと思います。彼は映画的持続を生きることができず、常に「世界」の側から映像・イマージュにアクセスし、どうにかイコンを得ようと試行錯誤を続けてきた人だった。彼は映画というものをたまたま作っていましたが、それは映画という20世紀メディアこそがこの世界の「崩壊」を描くことに適していると認識していたからかもしれません。彼の演出はいささか大仰だし、大雑把だし、審美的すぎる。しかしあるカット/シークエンスはとてつもなく素晴らしい。映画に対しては極めて不器用に接していたように感じられます。では彼が希求していたのは何か。それは動く映像である映画でなく、一瞬と零秒と無限が結晶したような「イコン」的なものだったと私は考えます。

 ならばタルコフスキーはなぜ「イコン」を希求したのでしょうか。おそらくは崩壊と終末の予兆の中において、永遠と無限を一瞬に結晶し、無限から未来を希求したかったからではないか。もしくは終末の予感のなかで心の平穏を託すような「何か」が必要だったのかもしれません。亡命に追い込まれた/亡命に追い込まれる映画作家が、何らかの「終わり」を意識しなかったはずはないでしょう。

 終わりが無限へと結びつくのも、終わりが零へと結びつくのも、そこからの救済として永遠が生まれるのも必然で、タルコフスキーの映画はそういった「イコン」を希求する過程でした。その最初の結実が、遺作となってしまった『サクリファイス』だった。ゆえに彼のイコンへの希求は中断させられたものでもあるのです。

 

Evan Parker Electroacoustic Quartet『Concert In Iwaki』(Uchimizu Records)

 

   エヴァン・パーカー・エレクトロアコースティック・カルテットのアルバムである。パーカーが90年代に入ってから活動を始め、ECMからもアルバムがリリースでも知られるパーカーのエレクトロアコースティックのプロジェクトだが、私見ではこのアルバムがある意味ではその最高傑作ではないかと思う。

 とにかく圧倒的なCDだ。演奏、録音、一枚の盤として質.すべてが素晴らしい。サックスと電子音響の交錯と融合していくさまに言葉を失い、アルバム収録時間の1時間ほどのあいだ耳をそばだて、聴覚を全開にし、ひたすら聴きいってしまった。

 音を聴いていたと同時に、この音が鳴らされていた「空間」を聴いていたような気がする。こんな体験はひさしぶりだ。全3曲、どれも20分超えの長尺だが、ミニマルでありながら変化を遂げ、しかもその音響の精度が素晴らしいので一瞬たりとも聴き飽きない。聴き逃せない。

 2000年にいわき市立美術館で行われた本カルテットのライブ録音だ。22年前(!)の録音だが古さは一切感じられない。2021年、2022年の演奏・録音といってもまったく遜色ない。いまだに鮮烈、新鮮な演奏であり、音響であり、録音なのである。

 なぜだろうか。それは、この録音にしかない音響空間が確実に生まれているからではないか。即興演奏と電子音響、その二つの磁場が見事に交錯しているのである。刷新された音響空間が聴覚を広げてくれるとでもいうべきか。エヴァン・パーカーのサックスと、パーカッションを担当するポール・リットン、ジョエル・ライアン、ロレンス・カサレィらによるエレクトロニクスがひとつの空間のなかで自然に、有機的に溶け込み、豊穣な音響空間が生成されていく。いわば演奏と音響とのあいだに「空間」「空気」が存在するかのようなのだ。音と音。音と空間。空間と空気。空気と音。パーカーのサックスとエレクトロニクス、コンピューターによるループなどが見事に溶け合い、融解し、「空気」を生成していく。

 まるで日本の雅楽のようなサウンドスケープだ。サックスと電子音響が融解し、清洌な音響空間が持続されていく。高い音。ざわめき。掠れ。持続。消失。生成。音たちが、生まれ、溶け合い、消えゆくさまは圧倒的としかいいようがない。かといって迫力で無駄に圧倒する演奏ではない。静謐ながら切れ味の鋭い達人の技のごとく張り詰めた緊張感が漲っているのだ。緊張ゆえの沈静。楽器と電子音楽の交錯。まさに真のエレクトロアコースティックインプロヴィゼーションではないか。

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 演奏と録音は素晴らしさは当然として、このアルバムを制作された方々の叡智がこのCDに結晶しているのだろう(ミックスをジョエル・ライアンが手がけていることも重要か)。一枚の録音芸術作品としてここまで密度の精度の高い作品なのである。

 ライナーノーツを執筆されたのは、畠中実氏。その的確な評はこのアルバムの聴き手に素晴らしい指針を与えてくれる。アートワークもふくめてCDというプロダクツを作り上げるという気概を感じさせてくれた。何もかもが流動的になっていくこの時代において、「作品」が「存在」することの強さと意味を改めて思い知ったアルバムであった。

音と知覚、世界

--音は「世界」に従属していないという立場を自分はとっています。これはおかしな考えかもしれません。普通、音は物質の接触によって生まれ、空気を通じて人の聴覚へと伝搬されるもののはずです。音と物質と世界は一体であり、そのこと自体を余地はない。

--しかし、私は「私たちの知覚はこの世界そのものに触れることはない」という自覚があります。純粋な「世界」は人間においては認識不可能という自覚です。「世界」は人間の知覚を経由して認識へと至るとき、さまざまな情報が捨象される。いわばビットレートを落とすように圧縮される。

--純粋な「世界」とは世界そのものです。つまり圧縮されていないデータとすべきでしょう。膨大な生データです。当たり前ですが、われわれ人間は、そんなウルトラ・ハイレゾリューションな「世界」すべてを知覚することはできません。どこかで焦点を絞り、編集をし、圧縮することで「世界」を捉えています。

--捨象と編集。そう考えると人間存在とはいわば「メディア」のようなものなのかもしれません。認識により「世界」の情報を捨象、圧縮し、解像度を落とすことで適度な輪郭線を得るように世界を捉え直すこと。そのとき「世界」は単純化され、認識の輪郭線に収まりやすくはなるが、その高密度の解像度は確実に落ちる。認識の速度にも遅延が生じる。「記憶」とはそういうものなのでしょう。

--つまり人間にとって「世界」とは常に遅れてくるものなのです。媒介・媒体=メディア=編集=圧縮によって人間は世界を知ることができる。ここで「世界」と人間認識のズレが生じるわけです。

--そのズレはもしかすると「虚構」といってもいいような気がしますが、虚構といっても「物語」とかそういうものでもありません。いわば映像と音響の記録媒体といってもいいでしょう。

--ここでもうひとつの問題であり、最初の問いに戻ります。映像と音は本来、同期しているものなのかという問いです。つまり世界と音は同期しているのかということです。

--映像は映像であり、そこに音はない。音も音でありそこに映像はない。だが映像は音を想起するし、音楽もまた映像を想起する。しかし絵画も写真にも音はない。音は映像ではない。

--そもそも映画もその初期には無声映画であり音はなかった。映像と音が同期したのはトーキー映画以降のことです。しかしその歴史的な捏造に過ぎない音と映像の同期を、われわれは当然の、当たり前の事実であるかのように思い込んできたのです。しかし映画の音は現実の音ではありません。その映像に必要な音がつけられています。

--同じようにわれわれの知覚もまた必要な音を無意識にでも選別しています。聴こえていても聞いていない音は存在する。世界と音は同期していない。先に書いたようにわれわれは観念によって世界を抽象化して認識さざるを得ない以上、世界そのものに触れることができないからです。つまり人間の知覚は世界に対して媒介・媒体としてあると考えるべきでしょう。

--世界と音は同期していない。なぜなら人間の知覚においては最初から分離・結合・編集されることで、この両者は存在するからです。

理念と空想

--人間は観念を生み出すことができます。観念とは意識内容の集合体のようなものでしょう。問題はこのことに人間は自覚できるという点だと思います。意識はある。その集合体もある。だがその意識を集合体として意識するには言語と記憶が複雑に絡み合う必要がある。そのとき意識された観念は、現実の記憶それじたいではなく、言語化を経由した抽象的なものということが大きいと思います。ここから想像力が生まれ、虚構の世界へと遡行されるようになる。

--虚構の世界と現実の世界を等しく捉えることができるのは、この観念の世界を経由しつつも虚構を現実と同義に捉えることができる人の意識と想像の力の結晶に思えます。まさに人間だけが得ることができるものです。偉大な作家たちの虚構世界を、その虚構の存在を愛することは、とても人間的な叡智の発露といえるでしょう。

--とするならば虚構の世界とは何のためにあるのかという問いに対する答えは簡単に思えます。虚構のオリジンは観念です。観念は現実を抽象化したものです。抽象化されることで現実は一度、現実そのものの表象から乖離します。抽象化によって過酷な現実から一度乖離し、しかしそれはこの現実の写鏡であることで、われわれをもう一度、現実に戻すこと。それが虚構性世界の大きな意味、役割のように思います。