宮﨑駿『君たちはどう生きるか』を観たので底の浅い感想など。

宮﨑駿監督の『君たちはどう生きるか』を観た。端的にいえば傑作であった。異様な傑作というべきかもしれない。これは宮﨑駿の「逆襲のシャア」であると無理な断言もしたくなる。そう失われた「母」の映画だからだ。

現実世界に疲弊した継母とその息子となる子供が睡眠=無意識=治療を経て、この世界に帰還する映画であった。それが「戦争」(第二次世界大戦)の影が浸透しつつある時代において、その戦争から距離のある地で行われる。いわば本作は特権と選ばれた人間たちの魂=心の救済の儀式である。あの塔はエヴァであり、すべての始まり・約束の地でるゴルゴダオブジェクトである。この映画はいわば無意識への遡行、旅であり、夢から夢を深く潜っていく睡眠と深層の映画であり、自らの「欲望」を自覚する映画でもある。誰の?いうまでもない宮﨑駿のである。われわれは「国民作家」となった現在81歳になる後期高齢者男性の無意識を目の当たりする。

いうまでもないが主人公の少年は宮﨑駿その人であり、少年の時代を遡行しつつ老齢に入った宮﨑駿その人でもある。宮﨑が自らの無意識に遡行して彼の途方もないイマジネーションの奔流が生のかたちのまま濁流のように表出される。そのイマジネーションの核には「母」の存在がある。失われた若く健康な時代の母への想いがそのまま芯の強さと可憐さを併せ持った少女像へと変化し、一方、さらに反転して老いて世慣れし小狡く逞しくなった一方しかし弱い存在となった老女としても表象される。

少女は単数的存在であり、母はなぜか二人に分裂し、老女は複数的存在である。宮崎駿にとって「母」とはそういう存在なのだ。若き母。これは宮﨑の幼少期。母は体を壊し入院し家にいなかった。健康になった母は現実の母であり、それは喪失された若き母とは違う。老女となった母は他の老女と同じく匿名化し、それでも愛情はある。

これはほぼ過去の宮崎駿作品すべての「答え」ではないか。すべては「母」だった。なんということだろうか。これでは日本アニメの持っている答えの露呈ではないか。

問題は「父」である。父は本作において無力である。それは現実に父になった宮崎駿の表象でもない。彼はこの映画ではほぼ「無」として存在する。「無」だが子や妻への愛情はある。「無」の愛情はしかし無である。だが彼は悪人ではない。ここには「日本人」がいる。私は彼を演じた木村拓哉の声がシャア・アズナブルを演じた池田秀一に非常に似ていたことが気になった。「ララァ・スンは私の母になってくれたかもしれなかった女性だ!それを殺したお前に何がいえる!」。シャアが死の間際に同じく母と不幸な別れをしたアムロ・レイに発した言葉が、彼の声の奥に(勝手に)聴こえてしまうし、その声がそのまま主人公の少年の声に反転する。

父と二人の母。本当の母の死。やがて死ぬ若き母。これから老いていくだろう継母。冒険へと導いた小狡いアオサギ鈴木敏夫だろう。アオサギが映画のポスターだった意味はここてわ分かる)との友情とその別れ。混沌とした映画の構造は、映画の終幕において見事な整合性を持って終わる。無意識からの目責め。

そこから始まる新しい現実はしかし「戦時中」という本当の「問題」からは今回も『風立ちぬ』同様に宮﨑駿は避けた。それが「次回作」にまで残された課題であることを自分は強く望む。宮﨑は自己と自我と母から解放され、ついに「歴史/戦争」を描く準備が整ったのだと今は信じたい。